2026/05/29

Nikon Z7Ⅱ



大沢池に突き出した池舞台に展示されていた嵯峨御流のいけばな作品である。
池の周囲には桜ともみじが植えられている。

Wikiによると、
嵯峨御流(さがごりゅう)は、嵯峨天皇を開祖とする華道の一派である。
第52代嵯峨天皇(延暦5年9月7日(786年10月3日)- 承和9年7月15日(842年8月24日))が弘仁の時世に、嵯峨離宮(現、大覚寺)に宮殿を構え、離宮内に造営された大沢池の菊ガ島に自生していた嵯峨菊を手折り、殿上の花瓶に挿されたことが発祥と伝わる。伝承によると、そのとき嵯峨天皇は「後世、花を生くるものは宜しく之を以て範とすべし」と言われ、華道の普及を進めたという。
嵯峨天皇の離宮(嵯峨院)は、その後亀山上皇や後宇多上皇による院政の舞台となり、嵯峨御所と呼ばれるようになる。江戸時代末期には未生流を学んだ未生斎広甫が活躍した。文政12年(1829年)に「嵯峨御所華務職」に就いた未生斎広甫は華道の普及につとめ、「華道家元」を名乗るまでになった。その結果、大覚寺の華道(後の「嵯峨御流」)は全国的に名が知れ渡るようになった。

秋に訪れたときには、ずらりと並べられた嵯峨菊を見た。
古代菊であり、現代の菊とはかなり様子が異なる。





2026/05/28

Nikon Z7Ⅱ



宸殿は天皇のお住まいだけあってなかなか立派である。
大覚寺によると、総畳数は約85畳、「牡丹の間」33畳、「柳松の間」18畳、「紅梅の間」22畳、「鶴の間」12畳とのことである。
85畳というと40坪ちょっとなので、1619年製の建物とは言え、物理的な広さから言えば別荘建築としてはほどほどではなかろうか。
やはりしつらえ方がいいと、立派に見えるのであろう。

大覚寺統の後宇多天皇について大徳寺は、
"後宇多天皇が徳治2年(1307)に出家し法皇となり、法名を金剛性と号し大覚寺に住して第23代門跡となる。この時、皇位が皇統や所領の継承をめぐって2分され、亀山・後宇多の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住したことにより大覚寺統(南朝)と称されることとなる。法皇は大覚寺の再興に尽力され、次々と伽藍の造営に努められたので「大覚寺殿」と称され大覚寺のご中興とされる。"
その頃だと人の出入りも多く手狭かもしれないと思ったりするが、当時の宸殿の広さが分からないからなんとも言えない。

なお、宸殿は正面から撮れないのでまたもや勅使門である。