2026/05/28

Nikon Z7Ⅱ



宸殿は天皇のお住まいだけあってなかなか立派である。
大覚寺によると、総畳数は約85畳、「牡丹の間」33畳、「柳松の間」18畳、「紅梅の間」22畳、「鶴の間」12畳とのことである。
85畳というと40坪ちょっとなので、1619年製の建物とは言え、物理的な広さから言えば別荘建築としてはほどほどではなかろうか。
やはりしつらえ方がいいと、立派に見えるのであろう。

大覚寺統の後宇多天皇について大徳寺は、
"後宇多天皇が徳治2年(1307)に出家し法皇となり、法名を金剛性と号し大覚寺に住して第23代門跡となる。この時、皇位が皇統や所領の継承をめぐって2分され、亀山・後宇多の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住したことにより大覚寺統(南朝)と称されることとなる。法皇は大覚寺の再興に尽力され、次々と伽藍の造営に努められたので「大覚寺殿」と称され大覚寺のご中興とされる。"
その頃だと人の出入りも多く手狭かもしれないと思ったりするが、当時の宸殿の広さが分からないからなんとも言えない。

なお、宸殿は正面から撮れないのでまたもや勅使門である。





2026/05/27

Nikon Z7Ⅱ



宸殿(重要文化財)の破風である。
大覚寺の中央に位置しており、狩野山楽の代表作である牡丹図が見られる。

大覚寺によると、
"江戸時代、後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。天皇に入内された徳川2代将軍秀忠の娘、東福門院和子が、女御御殿として使用していたもの。妻飾(つまかざり)、破風板(はふいた)、天井などに装飾がこらされている。正面には御所の名残りとして右近の橘、左近の梅を配す。蔀戸(しとみど)の蝉の飾りは精巧な作りとなっている。牡丹の間と紅梅の間を飾る襖絵、「牡丹図」と「紅梅図」は狩野山楽筆。"