2026/06/16
2026/06/15
Nikon Z7Ⅱ
表書院から望む三宝院庭園。
左下隅に並ぶ3つの石が賀茂の三石である。
醍醐寺によると、
"三宝院は永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建されました。醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が居住する坊です。現在の三宝院は、その建造物の大半が重文に指定されている。中でも庭園全体を見渡せる表書院は寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝に指定されています。国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園は、慶長3年(1598)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭であり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。"
特別史跡(歴史的な学術的価値)と特別名勝(美しい景観としての価値)の重複指定庭園は全国でも少ないそうである。
2026/06/13
Nikon Z7Ⅱ
三宝院庭園側から見た唐門。
この唐門は秀吉が没した翌年の1599年に建てられ、先の京都新聞の記事によると他の建物に使用されていたものを移築したものらしい。
もともとは屋根の無い平重門であり、聚楽第(1586-1595)で使用されていたものかもしれない。
それに唐破風の屋根を載せ、扉に大きな天皇家の伝統的な家紋を4つ等間隔に並べて取り付けた。
明快かつ豪快なモディファイである。
平安時代の豪華な門とは全く異なり、構造的には数寄屋造りに通じるようなシンプルな雰囲気がある。
しかし、金箔の大きな家紋を真っ黒な漆塗りに組み合わせた外装によりド派手でむき出しの威圧感を獲得した。
単に再利用するだけではなく、デザイン力を巧みに使い、最小限の費用で最大の効果を引き出している。
しきたりよりも合理性を重視しして天下を取った秀吉らしい門ではなかろうか。
2026/06/12
2026/06/11
Nikon Z7Ⅱ
醍醐寺の国宝三宝院唐門である。
wikiによると、
"勅使門。平唐門、檜皮葺、黒漆塗り。正面扉に金箔の桐紋、その脇に菊紋を張り付けるいかにも桃山時代らしい豪壮な門。2011年(平成23年)に行われた解体修理の結果、遺された墨書などから本来三宝院のために造られたものではなく、他の場所に建立する予定のものが何らかの事情によりここに建立されたと推測される。"
この門のレストアに関し京都新聞の詳しい記事がある。
2026/06/09
Nikon Z7Ⅱ
醍醐寺の歴史についてwikiは、
"平安時代初期の貞観16年(874年)に空海(弘法大師)の孫弟子にあたる聖宝(理源大師)が、自ら刻んだ准胝観音像ならびに如意輪観音像を上醍醐に祀って開創した。
延喜7年(907年)、醍醐天皇の発願により醍醐寺に薬師堂が建立され、薬師三尊が奉安された。その後、薬師三尊の奉安からまもなくして鎮護国家のために五大堂が建立されるとともに五大明王が奉じられた。
延長4年(926年)に下醍醐に釈迦堂(金堂)が建立され、同時期に笠取山全体を寺院に改装する計画が立てられた。
その改装事業は醍醐天皇の崩御後も朱雀天皇や村上天皇に受け継がれ、法華三昧堂が造設されるなどした。"
ちなみに醍醐寺の名の由来について醍醐寺は、
"『ある日、聖宝が深草の貞観寺から東のほうをご覧になると、五色の雲がたなびいているのが見え、その五色の雲に誘われ山に登り山頂に着いたときに「まるで生まれ故郷に帰ったような思いがした」そうです。谷間をご覧になると、一人の老人が湧き出る水を飲んで、「甘露。甘露。ああ醍醐味なるかな」と言っていました。聖宝は老人にこの地に寺院建立をしたいと声をかけられました。老人は、「ここは、諸仏・諸菩薩の雲集する地で、私は地主で横尾大明神である。この地を差し上げ、長く守護してあげる」とおっしゃられ、姿を消されました。』と伝えています。この水は醍醐水と呼ばれ、現在も枯れることなく湧き続けています。"
醍醐天皇(885年2月6日-930年10月23日/在位 897年8月4日-930年10月16日)といえば菅原道真(845年8月1日-903年3月26日)である。
菅原道真についてwikiは、
"忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めたが、藤原時平の讒言(昌泰の変)により、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後は怨霊となって清涼殿落雷事件などを起こしたとして恐れられ、日本三大怨霊の一人に数えられた。しかし、後に天満天神として信仰の対象となり、今日に至るまで学問の神様として親しまれている。"
"太宰府への移動はすべて自費によって支弁し、左遷後は俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられた。大宰府浄妙院で謹慎していたが、左遷から2年後の延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。刑死ではないが、衣食住もままならず窮死に追い込まれたわけであり、緩慢な死罪に等しい。"
"延喜8年(908年)に藤原菅根が病死し、延喜9年(909年)には藤原時平が39歳で病死した。これらは後に道真の怨霊によるものだとされる。延喜13年(913年)には右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死した。延喜23年には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨御した。"
"延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これも道真の怨霊が原因とされ、天暦元年(947年)に北野天満宮において神として祀られるようになった。"
醍醐天皇は40歳も年上の菅原道真を殺したわけだ。
その自責の念からか907年に自らの祈願寺にした醍醐寺にテコ入れした醍醐天皇ではあったが、醍醐天皇は怨霊と化した道真公により天国行きを阻まれ地獄に落ちたそうな。
おそろしやおそろしや。
ちなみに醍醐天皇の名前は、死んだときは醍醐寺にちなんで醍醐にしてと本人が言っていたから。
生前の名は敦仁。
菅原道真は、生前、醍醐寺を開いた聖宝に自分の墓を頼んだおいたので、醍醐寺の近くの長尾天満宮に道真の衣装を埋めた衣装塚がある。
そして醍醐天皇陵も醍醐寺の近所にある。
2026/06/08
Nikon Z7Ⅱ
この五重塔は38mの高さがあり、そのうち相輪部が12.8mで全体の3割以上になっている。
wikiによると、
"相輪の構造
上から順に
宝珠:仏舎利(釈迦の骨)が納められる。
竜車:奈良時代から平安時代の高貴な者の乗り物
水煙:火炎の透し彫り。火は、木造の建築物が火災に繋がるため嫌われ、水煙と呼ばれる。
お釈迦様が火葬されたことをあらわす。
九輪(宝輪):五智如来と四菩薩を表す。9つの輪からなる。
受花(請花):飾り台。蓮華の花。
伏鉢(覆鉢):鉢を伏せた形をした盛り土形の墓、ストゥーパ形。お墓を表している。
露盤:伏鉢の土台。
宝珠は仏舎利が納められるため、最も重要とされる。
なお、中心を貫く棒は擦(または刹管)と呼ばれる。
また、仏舎利は塔の中に安置されていることもある。"
2026/06/07
2026/05/31
2026/05/30
Nikon Z7Ⅱ
女ひとりの3番に大覚寺がある。
youtubeでデュークエイセス、カバーで小柳ルミ子、石川さゆりを聴いてみた。
風情があっていい歌だ。
女ひとり デュークエイセス
作詞 永六輔 作曲 いずみたく
京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり
結城(ゆうき)に塩瀬(しおぜ)の素描(すがき)の帯が
池の水面(みずも)にゆれていた
京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり
京都 栂尾(とがのお) 高山寺(こうざんじ)
恋に疲れた女がひとり
大島つむぎにつづれの帯が
影を落した石だたみ
京都 栂尾(とがのお) 高山寺(こうざんじ)
恋に疲れた女がひとり
京都 嵐山(らんざん) 大覚寺
恋に疲れた女がひとり
塩沢(しおざわ)がすりに名古屋帯
耳をすませば滝の音
京都 嵐山(らんざん) 大覚寺
恋に疲れた女がひとり
2026/05/29
Nikon Z7Ⅱ
大沢池に突き出した池舞台に展示されていた嵯峨御流のいけばな作品である。
池の周囲には桜ともみじが植えられている。
Wikiによると、
嵯峨御流(さがごりゅう)は、嵯峨天皇を開祖とする華道の一派である。
第52代嵯峨天皇(延暦5年9月7日(786年10月3日)- 承和9年7月15日(842年8月24日))が弘仁の時世に、嵯峨離宮(現、大覚寺)に宮殿を構え、離宮内に造営された大沢池の菊ガ島に自生していた嵯峨菊を手折り、殿上の花瓶に挿されたことが発祥と伝わる。伝承によると、そのとき嵯峨天皇は「後世、花を生くるものは宜しく之を以て範とすべし」と言われ、華道の普及を進めたという。
嵯峨天皇の離宮(嵯峨院)は、その後亀山上皇や後宇多上皇による院政の舞台となり、嵯峨御所と呼ばれるようになる。江戸時代末期には未生流を学んだ未生斎広甫が活躍した。文政12年(1829年)に「嵯峨御所華務職」に就いた未生斎広甫は華道の普及につとめ、「華道家元」を名乗るまでになった。その結果、大覚寺の華道(後の「嵯峨御流」)は全国的に名が知れ渡るようになった。
秋に訪れたときには、ずらりと並べられた嵯峨菊を見た。
古代菊であり、現代の菊とはかなり様子が異なる。
2026/05/28
Nikon Z7Ⅱ
宸殿は天皇のお住まいだけあってなかなか立派である。
大覚寺によると、総畳数は約85畳、「牡丹の間」33畳、「柳松の間」18畳、「紅梅の間」22畳、「鶴の間」12畳とのことである。
85畳というと40坪ちょっとなので、1619年製の建物とは言え、物理的な広さから言えば別荘建築としてはほどほどではなかろうか。
やはりしつらえ方がいいと、立派に見えるのであろう。
大覚寺統の後宇多天皇について大徳寺は、
"後宇多天皇が徳治2年(1307)に出家し法皇となり、法名を金剛性と号し大覚寺に住して第23代門跡となる。この時、皇位が皇統や所領の継承をめぐって2分され、亀山・後宇多の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住したことにより大覚寺統(南朝)と称されることとなる。法皇は大覚寺の再興に尽力され、次々と伽藍の造営に努められたので「大覚寺殿」と称され大覚寺のご中興とされる。"
その頃だと人の出入りも多く手狭かもしれないと思ったりするが、当時の宸殿の広さが分からないからなんとも言えない。
なお、宸殿は正面から撮れないのでまたもや勅使門である。
2026/05/27
2026/05/26
2026/05/25
2026/05/23
2026/05/21
Nikon Z7Ⅱ
何度見ても素晴らしい大覚寺の勅使門である。
1848年から1854年にかけて再建されたものである。
勅使門というと天皇やその使いが牛車に乗って静々と入ってくるシーンを想像していたが、後ろ髪を引かれるように退出されることもあるそうな。
大覚寺によると、
"世は尊王攘夷が叫ばれる混迷の時代、有栖川宮慈性門主は幕府から勤皇討幕の疑いをかけられ、真言宗であるにもかかわらず、宗派の違う天台宗の徳川家菩提寺、江戸の輪王寺の住職を兼務するよう命が下りました。慈性門主は嵯峨御所大覚寺をこよなく愛され、この地を離れたくない想いを強く持たれておりました。しかしながら、命に背くこともできずいよいよ江戸に出発の時、勅使門より出られましたが何度も何度も振り返られ、大覚寺に未練を残されたということから「おなごりの門」と呼ばれるようになりました。天台座主として輪王寺で五年過ごされた間も大覚寺の伽藍復興の念願を訴えられ、輪王寺を弟の公現法親王に譲るなど着々と大覚寺への帰山に備えられました。幕府も熱意にほだされたか隠居のうえでの帰山を認めましたが、出発寸前の慶応3年(1867)11月24日、突如、江戸で残念ながらお亡くなりになられました。行年55歳。茶毒によるものだと噂されています。今でも輪王寺にある有栖川宮慈性入道親王のお墓は、京都大覚寺の方角を向いているということです。"
有栖川宮慈性(ありすがわみやじしょう 1813-1868)は、10歳で大覚寺の第44世門跡になったそうである。
振り返り振り返りした勅使門は現在の勅使門であろう。
なお、有栖川宮慈性は大覚寺の最後の門跡でもある。
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