セーネンのころオートバイ屋のゴツイ親父に真顔で言われたことがある。
"お前、レースでもやんのか?"
ふふふふふ、この一言で悟った訳だ。
人生の中でもありがたい言葉ベストテンには入るね。
レースになると趣味ではなくなるよ、お前のレベルじゃ通用しないからそこいらを走り回るぐらいにしときな、そして、これ以上金をかけようとするな、という警告である。
元レーサーだったバイク屋の親父はこう言いたかったのだろう。
趣味っていうのは、自分の置かれている状況にしわ寄せが来ない範囲で好きなことを好き勝手にやる、好き勝手にやれる、ということだ。
それでその結果がマズかろうとなんだろうと、それは甘んじて受け入れる、そういう自主独立のやり方というか生き方が許されている"御意見無用のかけがえのないフィールド"ということになろう。
他者と争うレースになると、社会的に認められたルールの下に身を置くことになる。
こちらの都合や言い訳でそのルールが変更されることは絶対にない。
草レースなら問題はないが、真剣に他人と頂点を争い始めた瞬間に趣味ではなくなる。
だからこういうのは仕事と同じだ。
レースだけではない。
例えば、オーディオ雑誌の評論家の作ったルールの下でオーディオをやるなんて、こりゃ、最初っから物欲に苦しむためにやるようなものである。
オーディオ評論家なんてのは、どうにかして世間知らずの純朴なセーネンに高額な機材を次から次へと買わせようとしている訳だから、距離を保たないと思考を乗っ取られる、金を吸い取られる、あげく若さという可能性を食い潰すことになる。
これは評論家が狡猾だとか、騙された坊やが愚かとか、そういう話でもない。
実はそういう仕組みに組み入れられることを多くの人間が望んでいるから仕方がないのである。
日本人はこういうのが好きだし、不安になるからか仕組みに入らないのを憎んだりするんだよね。
で、話を戻すと、御意見無用のフィールドで好き勝手にやれば当然失敗を繰り返すわけだが、段々となぜ失敗するのかが分かるようになり、とうとう最後はその道を極めることができるようになる。
人生にはそういう過程を楽しむに十分な時間があるし、失敗を重ね散々苦しまないと、まあ、極めることなんかできないだろうよ。
セーネンよ、失敗を恐れるな失敗を繰り返しそこから学べ、自分が自由にできるフィールドを他人に明け渡すな、師匠づらする奴なんか叩き出せ、なのである。
という訳で、オートバイへの物欲は"物欲を制御する術"をこんなふうに教えてくれたのである。