2022/01/27

Yam Gruel / Ryunosuke Akutagawa (2)






しかしよく考えてみると、五位は結局、芋粥を大量に飲んでいるのである。
器は、「銀(しろがね)の提(ひさげ)の一斗ばかりはいるのに」との記載がある。
そして五位は、「提に半分ばかりの芋粥を大きな土器(かはらけ)にすくつて、いやいやながら飲み干した。」のである。

平安時代の話なので、当時の一斗がどの程度の容積なのかは不明だ。
調べてみると、中国の隋・唐では5.94Lだそうだから、誇張を考えても相当な量を五位は飲んだことになる。
ということは、五位は物質的に満たされているのに、精神的には満たされていないということになる。

ある意味、理解しがたい話だと思う。
芋粥を大量に飲んでおいて結局は満足しない、満足できない。
このような結果を招来したのは利仁の所業によるところなのであるが、芋粥を大量に飲むという点においては、完璧に希望した条件が満たされている。

利仁の所業と似たような作用を及ぼすものとして「時代」「ブーム」なんかが考えられる。
オーディオなどは、オーディオブームの時はマニアが大勢おり、皆、喉から手が出るほど欲しがったのに、今ではそんな話など聞かぬ。
なぜ、あんなに浮かれていたのか、いまとなってはさっぱり思い出せない。
そして今時、オーディオ趣味なんぞ何の理解も得られないだろうし、あれこれ当時の機材を手に入れてやってみても精神的に満たされることはまずないということだ。
人間はその時代の空気に反応せざるを得ないように作られているから、こればっかりは仕方がないと言わざるを得ない。
実に残念なことではなかろうか。

本当に欲しいものは手に入らないとは、ちょっと言い過ぎだとは思うが、それでも非常に困難であると言うことはできるであろう。
時期を逸してしまうと熱が冷めてしまい、もうそこには欲しいものがなくなってしまう。
軽薄な凡人やそれで己を飾ろうとする者ならそれで終わりだ。
こういう連中は新たに欲しいものができても結局は手に入らない、を繰り返すだけだ。
なんと人間はめんどくさく、愚かな存在なのであろうか。

けれども、悪いことばかりではない。
時代の空気が変わっていくということは、その時代特有の常識から離れてゆくということだ。
頭の中を支配する「常識の喧騒」が段々と収まってゆく。
要するにブームが去って、一人そこにたたずむことになる、というか孤独が手に入るわけだ。
これをチャンス到来ととらえるなら、本当に欲しいものが手に入るかもしれない。

オーディオに関しては、オーディオブームのころのオーディオの常識に縛られていた。
しかし、ブームが去れば、その束縛から解放され、とりあえずオーディオの常識でガチガチに固められていたものを粉砕し、自分の思い通りのオーディオの再構築をすることができる。
この再構築は、オーディオ以外の他の分野の経験から得たものを織り込みながら慌てず急がずじっくり行うことができる。
要するにブームのころには考えられなかったようなことができるということだ。

こうしたことは、自由に生きる、ということの一つの場面を現わしているのかもしれない。
徹頭徹尾自由にやれると、利仁みたいなのは眼中から消える、どうでもよくなる。
常識の喧騒ではなく、自由を意識して、あこがれていたものを手に入れ、じっくり付き合う。
最高ではないか。

一斗の芋粥ならぬ尋常ならざる巨大なスピーカーシステムを見ては、いまでも時よりほくそ笑んでいる、という次第である。



2022/01/25

Yam Gruel / Ryunosuke Akutagawa



芥川龍之介の芋粥を読んだ。
青空文庫である。
芥川は苦手で読んでもよく分からないという印象があった。
それで青空文庫で読み直してみることにしたのである。
青空文庫に掲載されている芥川の作品は378ある。

芋粥などの代表作は中学生ぐらいの時に読んでいるはずであり、また、大学生のころにも読んでいるはずなのだが、当時はなんだか意味が分からなかった。
実は、今回もよく分からなかった。
なにより芋粥を飲む狐には面喰った。

最後の記述「しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ慾望を、唯一人大事に守つてゐた、幸福な彼である。――彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云ふ安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。」
これから察するに、あこがれているうちが華、ということなんだろう。
しかし、そういうことなんだろうか?

豪快な芋粥の調理現場を見たとき、なぜ、五位は狂喜しなかったのか。
結局、ここで驚愕しつつも狂喜できないような器の狭い男だからああいう境遇の人になってしまったのだろうと思う。
一方、利仁もどうかと思う。
ユーモアがあるのはよいのだが、五位なんて相手にしてもつまらんと思う。
まあ、坊ちゃんというか、暇つぶしなんだろうな。

この作品は1916年に書かれている。
芥川は1892年の生まれだから24歳のときの作品だ。
あこがれていたものが手に入った後に、そこからさらに別の世界が広がっていることに気づいていたのかは、この作品からは伺えない。

なにはともあれ、好きなだけ努力や苦労をして手に入れないと始まらない。
手に入れたのなら放り出さず、それを味わい尽くす。
そしてさらに踏み込んでゆく。
こういう覚悟がないとどうにもならないように、思うな。