2022/01/29

Yam Gruel / Ryunosuke Akutagawa (3)




 
ところで、その後の五位はどうなったのであろうか?
帰京し、しばらくは芋粥の話でからかわれる日々が続くのであろう。
年に一度の芋粥を楽しめる正月の席では、おそらく落ち着いてそれを口にできる状況ではなくなるだろう
しかし、このような失敗は意外と悪くないのではないかと思うのである。

芥川は、五位が芋粥の夢を喪失したように評価しているが、夢を喪失したことにより新たな行動の機会を失った利点については考えていないようだ。
夢に向かって新たな行動を起こす場合、当然、現状を変更することになる。
山芋と甘葛(あまづら)が容易に手に入る田舎に暮らすことを五位が考えたとする。
当然、盗賊は出るだろうし、山芋ばかりを喰らうわけにもいかぬから村人ともうまくやっていかなければならぬ。
このように、都での五位の生活はみじめではあるが、かような生命の危険や生活の困難はない。

新しいことを始めるのはリスクが伴う。
たいていの場合、生存率の低下を招くのである。
であるからして、そのような分岐点に立つと、それを思いとどまらせる様な思考が無意識のうちに開始されるのである。

「金がかかるのではないか。」
「諦めればその金で旨いものがたらふく喰える。」
「怪我をするかもしれない。」
「家族が反対するだろう。」
「ご近所に笑われるかもしれない。」
「諦めれば余計な運動をすることもなく草臥れない。」

まあ、こんなどうでもよいようなことが次から次へと頭に浮かぶ。
新しいことを諦めるために思考を総動員し、現状に満足しようとするのである。

思うに、五位は「思いとどまらせる理由」を無意識下で探していたのではないだろうか。
そして、豪快な芋粥の調理現場の光景は、その「思いとどまらせる理由」そのものだった。
ああ、これは自分には絶対に無理だ、と心底納得できたのだ。
納得させられれば、危険に満ちた新たな行動に出ることはない。
五位は、ここに至って芋粥の呪縛から解放され、安心することができたのだ。
新たな行動の機会を失い、生存率の低下を防止することができたのである。

それに、己の不甲斐なさは恰好の酒の肴である。
じくじくと芋粥事件を思い出し、一斗の芋粥を前にした己の狼狽した姿や情けない表情を事細かく想像しては溜息をつき酒を呑む。
これが酒を旨くする、美酒にする。甘露である。
人間とはそういうものである。
アル中のほとんどは、この桃源郷に堕ち込んでいるのである。

どうだろう、こう考えてゆくと五位はそれほど不幸にはなっていないのではなかろうか。
現状維持ができた訳だし、己の不甲斐なさをまさぐる思い出で酒は旨くなる一方だ。
五位のその後の人生、言うこと無しではなかろうか。

それに、自由に生きる、というのも大変だ。
自由というのは出鱈目とはちがう。
時には調査研究し知識を蓄え、検討を重ね、己の方針を決定せねばならぬ。
五位のような人間にはやはり無理というものだろう。





2022/01/27

Yam Gruel / Ryunosuke Akutagawa (2)






しかしよく考えてみると、五位は結局、芋粥を大量に飲んでいるのである。
器は、「銀(しろがね)の提(ひさげ)の一斗ばかりはいるのに」との記載がある。
そして五位は、「提に半分ばかりの芋粥を大きな土器(かはらけ)にすくつて、いやいやながら飲み干した。」のである。

平安時代の話なので、当時の一斗がどの程度の容積なのかは不明だ。
調べてみると、中国の隋・唐では5.94Lだそうだから、誇張を考えても相当な量を五位は飲んだことになる。
ということは、五位は物質的に満たされているのに、精神的には満たされていないということになる。

ある意味、理解しがたい話だと思う。
芋粥を大量に飲んでおいて結局は満足しない、満足できない。
このような結果を招来したのは利仁の所業によるところなのであるが、芋粥を大量に飲むという点においては、完璧に希望した条件が満たされている。

利仁の所業と似たような作用を及ぼすものとして「時代」「ブーム」なんかが考えられる。
オーディオなどは、オーディオブームの時はマニアが大勢おり、皆、喉から手が出るほど欲しがったのに、今ではそんな話など聞かぬ。
なぜ、あんなに浮かれていたのか、いまとなってはさっぱり思い出せない。
そして今時、オーディオ趣味なんぞ何の理解も得られないだろうし、あれこれ当時の機材を手に入れてやってみても精神的に満たされることはまずないということだ。
人間はその時代の空気に反応せざるを得ないように作られているから、こればっかりは仕方がないと言わざるを得ない。
実に残念なことではなかろうか。

本当に欲しいものは手に入らないとは、ちょっと言い過ぎだとは思うが、それでも非常に困難であると言うことはできるであろう。
時期を逸してしまうと熱が冷めてしまい、もうそこには欲しいものがなくなってしまう。
軽薄な凡人やそれで己を飾ろうとする者ならそれで終わりだ。
こういう連中は新たに欲しいものができても結局は手に入らない、を繰り返すだけだ。
なんと人間はめんどくさく、愚かな存在なのであろうか。

けれども、悪いことばかりではない。
時代の空気が変わっていくということは、その時代特有の常識から離れてゆくということだ。
頭の中を支配する「常識の喧騒」が段々と収まってゆく。
要するにブームが去って、一人そこにたたずむことになる、というか孤独が手に入るわけだ。
これをチャンス到来ととらえるなら、本当に欲しいものが手に入るかもしれない。

オーディオに関しては、オーディオブームのころのオーディオの常識に縛られていた。
しかし、ブームが去れば、その束縛から解放され、とりあえずオーディオの常識でガチガチに固められていたものを粉砕し、自分の思い通りのオーディオの再構築をすることができる。
この再構築は、オーディオ以外の他の分野の経験から得たものを織り込みながら慌てず急がずじっくり行うことができる。
要するにブームのころには考えられなかったようなことができるということだ。

こうしたことは、自由に生きる、ということの一つの場面を現わしているのかもしれない。
徹頭徹尾自由にやれると、利仁みたいなのは眼中から消える、どうでもよくなる。
常識の喧騒ではなく、自由を意識して、あこがれていたものを手に入れ、じっくり付き合う。
最高ではないか。

一斗の芋粥ならぬ尋常ならざる巨大なスピーカーシステムを見ては、いまでも時よりほくそ笑んでいる、という次第である。