2026/06/11

Nikon Z7Ⅱ



醍醐寺の国宝三宝院唐門である。
wikiによると、
"勅使門。平唐門、檜皮葺、黒漆塗り。正面扉に金箔の桐紋、その脇に菊紋を張り付けるいかにも桃山時代らしい豪壮な門。2011年(平成23年)に行われた解体修理の結果、遺された墨書などから本来三宝院のために造られたものではなく、他の場所に建立する予定のものが何らかの事情によりここに建立されたと推測される。"
この門のレストアに関し京都新聞の詳しい記事がある。




2026/06/09

Nikon Z7Ⅱ



醍醐寺の歴史についてwikiは、

"平安時代初期の貞観16年(874年)に空海(弘法大師)の孫弟子にあたる聖宝(理源大師)が、自ら刻んだ准胝観音像ならびに如意輪観音像を上醍醐に祀って開創した。
延喜7年(907年)、醍醐天皇の発願により醍醐寺に薬師堂が建立され、薬師三尊が奉安された。その後、薬師三尊の奉安からまもなくして鎮護国家のために五大堂が建立されるとともに五大明王が奉じられた。
延長4年(926年)に下醍醐に釈迦堂(金堂)が建立され、同時期に笠取山全体を寺院に改装する計画が立てられた。
その改装事業は醍醐天皇の崩御後も朱雀天皇や村上天皇に受け継がれ、法華三昧堂が造設されるなどした。"

ちなみに醍醐寺の名の由来について醍醐寺は、
"『ある日、聖宝が深草の貞観寺から東のほうをご覧になると、五色の雲がたなびいているのが見え、その五色の雲に誘われ山に登り山頂に着いたときに「まるで生まれ故郷に帰ったような思いがした」そうです。谷間をご覧になると、一人の老人が湧き出る水を飲んで、「甘露。甘露。ああ醍醐味なるかな」と言っていました。聖宝は老人にこの地に寺院建立をしたいと声をかけられました。老人は、「ここは、諸仏・諸菩薩の雲集する地で、私は地主で横尾大明神である。この地を差し上げ、長く守護してあげる」とおっしゃられ、姿を消されました。』と伝えています。この水は醍醐水と呼ばれ、現在も枯れることなく湧き続けています。"




醍醐天皇(885年2月6日-930年10月23日/在位 897年8月4日-930年10月16日)といえば菅原道真(845年8月1日-903年3月26日)である。

菅原道真についてwikiは、
"忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めたが、藤原時平の讒言(昌泰の変)により、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後は怨霊となって清涼殿落雷事件などを起こしたとして恐れられ、日本三大怨霊の一人に数えられた。しかし、後に天満天神として信仰の対象となり、今日に至るまで学問の神様として親しまれている。"

"太宰府への移動はすべて自費によって支弁し、左遷後は俸給や従者も与えられず、政務にあたることも禁じられた。大宰府浄妙院で謹慎していたが、左遷から2年後の延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。刑死ではないが、衣食住もままならず窮死に追い込まれたわけであり、緩慢な死罪に等しい。"

"延喜8年(908年)に藤原菅根が病死し、延喜9年(909年)には藤原時平が39歳で病死した。これらは後に道真の怨霊によるものだとされる。延喜13年(913年)には右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死した。延喜23年には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨御した。"

"延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これも道真の怨霊が原因とされ、天暦元年(947年)に北野天満宮において神として祀られるようになった。"

醍醐天皇は40歳も年上の菅原道真を殺したわけだ。
その自責の念からか907年に自らの祈願寺にした醍醐寺にテコ入れした醍醐天皇ではあったが、醍醐天皇は怨霊と化した道真公により天国行きを阻まれ地獄に落ちたそうな。
おそろしやおそろしや。

ちなみに醍醐天皇の名前は、死んだときは醍醐寺にちなんで醍醐にしてと本人が言っていたから。
生前の名は敦仁。
菅原道真は、生前、醍醐寺を開いた聖宝に自分の墓を頼んだおいたので、醍醐寺の近くの長尾天満宮に道真の衣装を埋めた衣装塚がある。
そして醍醐天皇陵も醍醐寺の近所にある。



2026/06/08

Nikon Z7Ⅱ



この五重塔は38mの高さがあり、そのうち相輪部が12.8mで全体の3割以上になっている。
wikiによると、

"相輪の構造
上から順に
宝珠:仏舎利(釈迦の骨)が納められる。
竜車:奈良時代から平安時代の高貴な者の乗り物
水煙:火炎の透し彫り。火は、木造の建築物が火災に繋がるため嫌われ、水煙と呼ばれる。
お釈迦様が火葬されたことをあらわす。
九輪(宝輪):五智如来と四菩薩を表す。9つの輪からなる。
受花(請花):飾り台。蓮華の花。
伏鉢(覆鉢):鉢を伏せた形をした盛り土形の墓、ストゥーパ形。お墓を表している。
露盤:伏鉢の土台。
宝珠は仏舎利が納められるため、最も重要とされる。
なお、中心を貫く棒は擦(または刹管)と呼ばれる。
また、仏舎利は塔の中に安置されていることもある。"





2026/06/07

Nikon Z7Ⅱ



醍醐寺の国宝五重塔である。
醍醐寺によると
"醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、村上天皇の天暦5年(951)に完成した。京都府下最古の建造物で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものといわれている。"
風格のある素晴らしい五重塔である。





2026/06/06

Nikon Z7Ⅱ



醍醐寺の桜は見ごろを過ぎていた。
枝垂桜もほぼ散っていた。
枝垂れの見頃は3/31だったそうだ。





2026/06/04

CITIZEN CC5001-00W



シチズンのGPSダイバーズ。
シチズンによると、
"本モデルは、世界初のISO規格200mに対応した光発電GPS衛星電波時計の本格派ダイバーズウオッチです。Cal.F158は、フル充電すれば、光のないところでも約7年(パワーセーブ作動時)動き続ける持続時間を実現しました。また、2時と4時位置にあるプッシュボタンを2つ同時に押すことで衛星電波受信機能(自動時刻受信も含む)をオフにするダイブモード機能を装備しています。"
amazonで136400円(13640ポイント付)だった。




ケース径は47mm、厚さは15.6mmとなかなか巨大であり、お気に入りのデカアツ3傑と同等の存在感がある。
光を当てると美しいグリーンのダイヤルとホワイトのチャプターリングにより、さわやかな感じを受ける。
また、クロノグラフのような2つのボタンが付いており、いろいろな操作が楽しめる。
全体として非常に派手なデザインであり、純白のラバーベルトと組み合わせるとド派手になる。
暗所で7年動き続け、30年ぐらいメンテナンスフリーであろう。
チタンボディ、デュラテクト、サファイアガラスと、軽量かつ高硬度で文句ない。
なお、WOOCIのグリーンのラバーベルトに交換した。




なぜ、ダイバーズにGPSなのよという点について、シチズンは、
"見返しリングには、世界最大の旅行プラットフォーム『TripAdvisor』とのコラボレーションにより選出された、世界の名だたるダイビングスポット8カ所が表記されています。GPS衛星から位置・時刻情報を取得し、時刻・カレンダーを修正することで、世界中のダイバーが憧れるダイビングスポットはもちろん、世界中のどこにいても正確な時刻を表示できます。"
なるほど。



2026/06/02

CITIZEN BN0228-06W



シチズンのエコドライブ、チタンケースのダイバーズウオッチである。
amazonで28265円だった。
現在の価格では4万円近くに上昇しているのでたまたま安く購入できたのだろうが、新品の価格がこんな風に上下するのはなぜなのだろう。




このデザインは1982年発売の"プロフェッショナルダイバー1300m防水"というシチズンのダイバーズウオッチのデザインを踏襲したものだそうである。
これは当時、世界一の耐圧性能だったそうだ。
BN0228-06Wはリューズの位置などが若干異なるのだが、そういう経緯でデザインされているのでレトロジラ(retrozilla)とあだ名がついている。

チタンケースはシチズンお得意の超硬度を誇るデュラテクトであるが、ガラスはクリスタルでありサファイアではない。
このため、28mm径の9Hの保護ガラスを貼り付けた。
手首に装着するとラグ間の距離が短いため手首表面から浮き上がらず、装着感は良好である。
また、チタン製なので非常に軽く、実際の使用感は素晴らしい。
この詳しいレビューによるとエコドライブは30年以上メンテナンスフリーだそうで、二次電池も当然そのぐらい持つのだろう。
画像は、純正の濃緑のラバーベルトからWOCCIのグレーのラバーベルトに交換した状態。



2026/05/31

Nikon Z7Ⅱ



大覚寺でのんびりしようとした嵯峨天皇、権謀術策を巡らした後宇多上皇、まあ、残りの人生どうするのかは人による。
のんびり暮らすなら車の音がしないそして林に囲まれた別荘は贅沢の最高峰かもしれない。
滝の音ではなく人生の本音が聴こえるような、そんな別荘に育てたい。





2026/05/30

Nikon Z7Ⅱ



女ひとりの3番に大覚寺がある。
youtubeでデュークエイセス、カバーで小柳ルミ子、石川さゆりを聴いてみた。
風情があっていい歌だ。




女ひとり  デュークエイセス
作詞 永六輔  作曲 いずみたく

京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり
結城(ゆうき)に塩瀬(しおぜ)の素描(すがき)の帯が
池の水面(みずも)にゆれていた
京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり

京都 栂尾(とがのお) 高山寺(こうざんじ)
恋に疲れた女がひとり
大島つむぎにつづれの帯が
影を落した石だたみ
京都 栂尾(とがのお) 高山寺(こうざんじ)
恋に疲れた女がひとり

京都 嵐山(らんざん) 大覚寺
恋に疲れた女がひとり
塩沢(しおざわ)がすりに名古屋帯
耳をすませば滝の音
京都 嵐山(らんざん) 大覚寺
恋に疲れた女がひとり



2026/05/29

Nikon Z7Ⅱ



大沢池に突き出した池舞台に展示されていた嵯峨御流のいけばな作品である。
池の周囲には桜ともみじが植えられている。

Wikiによると、
嵯峨御流(さがごりゅう)は、嵯峨天皇を開祖とする華道の一派である。
第52代嵯峨天皇(延暦5年9月7日(786年10月3日)- 承和9年7月15日(842年8月24日))が弘仁の時世に、嵯峨離宮(現、大覚寺)に宮殿を構え、離宮内に造営された大沢池の菊ガ島に自生していた嵯峨菊を手折り、殿上の花瓶に挿されたことが発祥と伝わる。伝承によると、そのとき嵯峨天皇は「後世、花を生くるものは宜しく之を以て範とすべし」と言われ、華道の普及を進めたという。
嵯峨天皇の離宮(嵯峨院)は、その後亀山上皇や後宇多上皇による院政の舞台となり、嵯峨御所と呼ばれるようになる。江戸時代末期には未生流を学んだ未生斎広甫が活躍した。文政12年(1829年)に「嵯峨御所華務職」に就いた未生斎広甫は華道の普及につとめ、「華道家元」を名乗るまでになった。その結果、大覚寺の華道(後の「嵯峨御流」)は全国的に名が知れ渡るようになった。

秋に訪れたときには、ずらりと並べられた嵯峨菊を見た。
古代菊であり、現代の菊とはかなり様子が異なる。





2026/05/28

Nikon Z7Ⅱ



宸殿は天皇のお住まいだけあってなかなか立派である。
大覚寺によると、総畳数は約85畳、「牡丹の間」33畳、「柳松の間」18畳、「紅梅の間」22畳、「鶴の間」12畳とのことである。
85畳というと40坪ちょっとなので、1619年製の建物とは言え、物理的な広さから言えば別荘建築としてはほどほどではなかろうか。
やはりしつらえ方がいいと、立派に見えるのであろう。

大覚寺統の後宇多天皇について大徳寺は、
"後宇多天皇が徳治2年(1307)に出家し法皇となり、法名を金剛性と号し大覚寺に住して第23代門跡となる。この時、皇位が皇統や所領の継承をめぐって2分され、亀山・後宇多の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住したことにより大覚寺統(南朝)と称されることとなる。法皇は大覚寺の再興に尽力され、次々と伽藍の造営に努められたので「大覚寺殿」と称され大覚寺のご中興とされる。"
その頃だと人の出入りも多く手狭かもしれないと思ったりするが、当時の宸殿の広さが分からないからなんとも言えない。

なお、宸殿は正面から撮れないのでまたもや勅使門である。





2026/05/27

Nikon Z7Ⅱ



宸殿(重要文化財)の破風である。
大覚寺の中央に位置しており、狩野山楽の代表作である牡丹図が見られる。

大覚寺によると、
"江戸時代、後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。天皇に入内された徳川2代将軍秀忠の娘、東福門院和子が、女御御殿として使用していたもの。妻飾(つまかざり)、破風板(はふいた)、天井などに装飾がこらされている。正面には御所の名残りとして右近の橘、左近の梅を配す。蔀戸(しとみど)の蝉の飾りは精巧な作りとなっている。牡丹の間と紅梅の間を飾る襖絵、「牡丹図」と「紅梅図」は狩野山楽筆。"





2026/05/26

Nikon Z7Ⅱ



その御影堂である。
大覚寺によると、
"大正14年(1925)建造。大正天皇ご即位に際し建てられた饗宴殿(きょうえんでん)を式後賜り移築したもの。心経殿の前殿にあたるため「心経前殿」と呼ばれ、内陣正面は心経殿を拝するため開いている。大覚寺の歴史上特に重要な嵯峨天皇、弘法大師(秘鍵大師)、後宇多法皇、恒寂入道親王の尊像をお祀りするため「御影堂」とも呼ばれる。"
大覚寺は皇室と深いつながりがあるため松が多い。





2026/05/25

Nikon Z7Ⅱ



御影堂から撮影。
奥は勅使門、赤いものが置いてあるのが石舞台である。
これは嵯峨御流の春の華道祭がこの後行われたからで、この赤いのは準備中の作品かその骨組みだと思われる。





2026/05/23

Nikon Z7Ⅱ



明智門から見た御殿川である。
明智門は時代劇で出てくる北町奉行所や南町奉行所の門としてロケで使用されている。
この御殿川に架かる石橋や奥に見える勅使門への太鼓橋も登場する。
夜中、橋の上を御用だ御用だとやってくる追手を橋の下に潜んでやり過ごしたり、あるいは、この御殿川の川底を突っ走って逃亡するあれである。





2026/05/21

Nikon Z7Ⅱ



何度見ても素晴らしい大覚寺の勅使門である。
1848年から1854年にかけて再建されたものである。
勅使門というと天皇やその使いが牛車に乗って静々と入ってくるシーンを想像していたが、後ろ髪を引かれるように退出されることもあるそうな。

大覚寺によると、
"世は尊王攘夷が叫ばれる混迷の時代、有栖川宮慈性門主は幕府から勤皇討幕の疑いをかけられ、真言宗であるにもかかわらず、宗派の違う天台宗の徳川家菩提寺、江戸の輪王寺の住職を兼務するよう命が下りました。慈性門主は嵯峨御所大覚寺をこよなく愛され、この地を離れたくない想いを強く持たれておりました。しかしながら、命に背くこともできずいよいよ江戸に出発の時、勅使門より出られましたが何度も何度も振り返られ、大覚寺に未練を残されたということから「おなごりの門」と呼ばれるようになりました。天台座主として輪王寺で五年過ごされた間も大覚寺の伽藍復興の念願を訴えられ、輪王寺を弟の公現法親王に譲るなど着々と大覚寺への帰山に備えられました。幕府も熱意にほだされたか隠居のうえでの帰山を認めましたが、出発寸前の慶応3年(1867)11月24日、突如、江戸で残念ながらお亡くなりになられました。行年55歳。茶毒によるものだと噂されています。今でも輪王寺にある有栖川宮慈性入道親王のお墓は、京都大覚寺の方角を向いているということです。"

有栖川宮慈性(ありすがわみやじしょう 1813-1868)は、10歳で大覚寺の第44世門跡になったそうである。
振り返り振り返りした勅使門は現在の勅使門であろう。
なお、有栖川宮慈性は大覚寺の最後の門跡でもある。





2026/05/20

Nikon Z7Ⅱ



藤原公任の"滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れて尚聞こえけれ"の名古曽の滝の近くにある名古曽橋である。
家族4人でにぎやかに渡ったのであった。





2026/05/19

Nikon Z7Ⅱ



京都大覚寺の大沢池と満開の桜。
この大覚寺はもともと嵯峨天皇の離宮というか別荘であり、離宮嵯峨院と呼ばれていた。
嵯峨天皇(786年-842年)は46歳(833年)の時に太皇太后嘉智子と共にここに移り住み、別荘暮らしを始めた。
大沢池もその際に作られたようで、平安時代前期の名残をとどめる日本最古の人工の庭池とされている。
これは南東にゆるく傾斜する地形を利用して南から東にかけて長い堤防を作り、北西側からの流れをせき止めて池にしたものである。
お花見や紅葉を楽しみながら周囲をのんびり散歩するにはちょうどいいサイズである。

嵯峨天皇は57歳で亡くなるので田舎暮らしの期間は10年ぐらいである。
別荘取得適齢期はいつ頃なのかと時々考えたりする。





2026/05/18

Nikon Z7Ⅱ



S560を使用し、二泊三日で下田と松崎に遊びに行った。
ときどきランチやディナーで利用していたホテルに初めて泊まった。
部屋は6階にあり、そこのバルコニーから撮影した。




5/11 快晴。下田へ。了仙寺のアメリカジャスミンを見に行く。見事に満開である。
それから黒船ミュージアムで解説動画を見る。了仙寺が果たした役割などがよく分かった。
昼になったのでFermenCo.(フェルメンコ)に行ってピザを食べる。
シラスとモッツァレラチーズのピザが美味しかった。
さらに、玉泉寺に行き、ハリス記念館も見た。
夕食は大川屋で鰻を食べた。うまい。

5/12 天気良し。松崎の長八美術館に行く。
松崎出身で江戸時代に左官の名工として名をあげた入江長八の作品約50点が展示されている。素晴らしい。
それから重要文化財の岩科学校を見学した。ここでも長八の作品を見ることができた。
昼は道の駅で桜葉蕎麦を食べる。桜の葉を練り込んだ蕎麦で、こういうのは初めて食べた。
ホテルでディナー。やはりここのレストランは魚料理がうまい。夜の浜辺を歩いてみた。

5/13 快晴。ここのホテルのビュッフェ形式の朝食はなかなかいいと思った。
食後、テラスでゆっくりカフェラテを楽しむ。
チェックアウトしてバガテル公園へ。今年で閉園だそうである。バラ園は相変わらず素晴らしい。
木陰のベンチでゆっくり過ごす。これで見納めだと思うと少し寂しい。
ホテルに戻ってテラスでランチを頂き、帰宅した。



2026/05/16

Nikon Z7Ⅱ



"京都大原三千院、恋に疲れた女がひとり"は永六輔だったか。
三千院門跡を後にして味工房志野で筍ご飯と柴漬け、それから桜餅を買う。
桜が満開の高野川、その元井出橋の袂の小さな公園でそれらをパクつく。
今まで食べた桜餅の中でこれは最高だった。





2026/05/15

Nikon Z7Ⅱ



三千院は西に向かって開けた小さな扇状地地形の扇頂に位置している。
標高は280mから300mであり、一年を通じて比較的すごしやすい気候だと思う。
また、山林に囲まれているため、標高とあいまって春の花はやや遅れていっぺんに咲く傾向がある。
桜の他、木蓮や石楠花も咲いていた。







2026/05/14

Nikon Z7Ⅱ



有静園から観音堂の方へ登ってゆくと庭の表情は一変する。
枝垂桜や山桜などが満開になっており、その華やかさは極楽を思わせる。
樹形をむやみに整えていないので桜に勢いがあり豪快だ。



 



2026/05/10

Nikon Z7Ⅱ



苔の上に木漏れ日を作っているのは杉木立ちである。
この苔苑は有静園と呼ばれ中央に極楽往生院がある。
極楽往生院には国宝阿弥陀如来三尊が安置されており真近で拝観できる。
平安時代を代表する三尊像だそうだ。





2026/05/09

Nikon Z7Ⅱ



椿が浮かべてあった弁天池のそばにわらべ地蔵がある。
柔らかな苔に包まれ、なんとも言えない穏やかな表情が素敵だ。
石彫刻家の杉村孝氏の手によるものである。





2026/05/08

Nikon Z7Ⅱ



浮かべた椿の花に木漏れ日がさしている。
山桜の花びらも浮いている。





2026/05/07

Nikon Z7Ⅱ



三千院は庭が素晴らしい。
素晴らしいというより楽しい。
愛されている庭という感じがする。





2026/05/03

Nikon Z7Ⅱ



この雨の日の智積院は印象的だった。
家族は他の用事があって単独行動だったし、他の観光客もおらず、1時間以上、この庭園と大書院には自分だけだったからだ。
今までこういう経験をしたことがない。




生老病死の四苦は仏様に引き受けてもらい、欲を遠ざけ頭を丸めて敵意が無いことを示せば襲われることも無い。
そういう状態に置かれれば不安からも逃れられるだろう。
不安は野生の必然だから、それから逃れた状態になると果たして人間はどう変わるのか。
ベリャーエフの実験をDNAではなく環境でやってみたのが宗教ということかもしれない。
雨音以外は聴こえぬ静まり返った寺院でそんなことを考えた。



2026/05/02

Nikon Z7Ⅱ



講堂の廻縁。
毎日早朝、この廊下を修行僧の方々が磨き上げるそうだ。




智積院は真言宗智山派の三千もの寺をまとめる総本山である。
根来寺の時代、真言宗を学ぶための学問所であり、当時学僧は六千人もいたそうである。
この学僧達が巣立ち真言宗智山派として全国に広がっていったのだと思う。
京都に移ってからも多数の学僧が学び、朝粥を啜る音が七条大橋まで聞こえたそうである。
金堂のすぐ裏手には予想を超える規模の学侶墓地があり、志半ばで亡くなった学僧が葬られている。



2026/05/01

Nikon Z7Ⅱ



庭に面する大書院の広間には長谷川等伯のあまりできの良くないレプリカが展示されている。
左側手前が等伯の楓図、その奥が等伯の息子の久蔵の桜図、正面が松に立ち葵図である。
利休や秀吉に気に入られた等伯、当時の京都の画壇を支配していた狩野派との対立、そして、等伯は久蔵をあえて狩野派に修行に出したのだが期待の久蔵が若くして謎の死を遂げるのである。
楓図の向かって右側の枝が下を向いているのは久蔵の死を悼んでとの話がある。




智積院はもともと祥雲寺があったところに建てられた。
この祥雲寺というのは秀吉が夭折した鶴松のために建立した禅寺である。
一方、智積院は和歌山の根来寺の塔頭の一つであった。
根来塗の漆器を集めたことがあったので、根来寺には親近感がある。

根来寺を拠点とする根来衆が秀吉に反抗したため、秀吉により根来寺は焼き討ちにあい、同時に智積院も焼失する。
その後、豊臣が滅び家康の時代が来ると、秀吉に押さえつけられていた勢力が盛り返す。
そういう背景があり家康は智積院に祥雲寺を与えるわけである。

正面の松に立ち葵図は、大きく右側に傾いている松が鶴松、その下に咲いている葵が家康という訳である。
解釈は分かれているが、まあ、何と言うか。

なお、楓図、桜図、松に立ち葵図はすべて国宝であり、現物は智積院の宝物館で見ることができる。
いずれも大きく迫力があり日本画の頂点を極めた素晴らしい障壁画である。



2026/04/30



池の底には泥がひいてあり、それを鯉に攪拌させる。
その濁りによって長江という大河を表現している。





2026/04/29

Nikon Z7Ⅱ



長江の対岸には廬山が迫っている。
この築山には散策用の通路が設けられており、以前は自由に歩けたそうである。
歩きながら鳥瞰する長江と廬山の雄大な景色、その見立てがどんな具合なのかを想像してみる。






2026/04/28

Nikon Z7Ⅱ



大書院から撮影した名勝庭園の右手側。
細長い池は長江(揚子江)を表現したものとされる。






2026/04/27

Nikon Z7Ⅱ



雨の日に智積院の名勝庭園を訪れた。
中庭の砂紋が雨水に沈む。






2026/04/26

JBL PARTYBOX ON THE GO2



オレンジオイルの香りに包まれながらベースの汚れを落としていると、突然、ソルフェージュだっ、音楽の基礎練だ!と思い立ったのである。
その思い付きにビックリマークが付いていたから、なんとなくJBLのパーティボックスを連想した。
それに声での練習ならやっぱりエコーが必要でしょうと、何の話か。




amazonでマイク2本付が42000円。
高いような安いような、よう分からん。
13cmウーファーと2つの2㎝ツィーター、2本のダクトを持つバスレフである。
この前の機種の分解動画をyoutubeで見た。
重さは6.36kgと重く、サイズもデカい。

音の方は先のFLIP7よりもうんといい。
内容積が効いており、低音に余裕がある。
公称40Hz-20kHz(-6dB)も納得である。
ベースブーストスイッチがあり、ノーマル、レベル1、レベル2の3段階に切り替えられる。
この低音とLEDの派手な光の演出も加わり、ノリノリでカラオケの日々を送っている。
普通に音楽だけを聴いてもなかなか良い。



2026/04/25



御所庭園の北庭。
1887年に宸殿などが焼失、1914年に宸殿が新たに建てられ、造園家7代目小川治兵衛によりこの宸殿庭園が改修されたそうである。
とは言え、やはり門跡寺院の風格がこういう庭園を造らせたのだろうとも思う。

仁和寺の桜は染井吉野が終ったあと、4月の中旬に咲くので京都の花見の見納めになる。
このためか見物客は外国人よりも関西圏の方が多かったように思う。
天候に恵まれたのと新設されたデッキのおかげで御室桜を満喫できました。






2026/04/24

Nikon Z7Ⅱ



御所庭園の南庭。
白砂を敷き詰めた石庭であり、砂紋が直線的に描かれている。
左側が勅使門、奥の右側が仁王門である。
天皇や勅使が来るとこの勅使門を使用することになるのだが、その際、砂紋はどうなるのか。








2026/04/23

Nikon Z7Ⅱ



国宝の金堂である。
1613年に建立された京都御所の紫宸殿を1641年ごろに移築したものであり、現存する紫宸殿としては最古のものだそうである。
正面から撮ってみたかったのだが、参拝の列ができており無理だった。
亀に乗った黄安仙人の飾り瓦が見える。






2026/04/22

Nikon Z7Ⅱ



桜苑から撮影するとどうしてもこの五重塔を写してしまう。
桜の上にぐっと突き出してなかなかの御姿だからだ。
江戸初期の1644年に建立され、高さは36mもある。
東寺の五重塔と同様に上層から下層にかけて各層の幅にあまり差が見られないという特徴がある。







2026/04/21

Nikon Z7Ⅱ



御室桜は御室有明桜とも呼ばれ、一重から八重咲、またその中間とバリエーションがあるそうだ。
一つ一つの花が大きいのと花数が多いというか花の密度が高いのが印象的だ。
また、開花と同時に葉が出てくるようだ。
何となくだが、葉が同時に出ること(葉がうまそうなところも)や大柄な花の印象が大島桜(大島は緑っぽいが)を連想させる。
大島は染井吉野等の鑑賞用品種の台木でもあるが、これは高木というより大木、いや巨木である。
なのでおそらく関係はないと思う。
御室桜が低木なのは、環境によるものなのかDNAに起因するものなのかは調べてみたが分からない。
まあ、桜の苗木などは売れそうな名前で販売されていることが多いから、やはりDNA解析で調べてみないとわからないだろう。








2026/04/20

Nikon Z7Ⅱ



御室桜のトンネルでは見事に咲き誇る全体の様子が味わえない。
そこで今年の3月26日に桜苑の一番端に沿うように鑑賞デッキが新設された。
この全長55mのデッキは、住友林業が寄贈した京都産のヒノキ材が使用されている。
また、このデッキに設置してあるベンチにも座らせてもらったのだが、このベンチは住友林業の新居浜社有林で育ったヒノキが使用されているそうである。






 

2026/04/19

Nikon Z7Ⅱ



仁和寺での花見はこんな具合に約200本の御室桜のトンネルの中を歩く。
目の高さで桜の花が咲いているので迫力があり少し驚いた。
この御室桜の保護活動を行っている住友林業グループによると、
"正保3年(1646年)の伽藍(がらん)再建の際に植えられたものであり、樹齢360年を超えると推測されることから樹勢の衰えが顕著であり、一部では枯死も危惧されています。
こうした課題を受け、仁和寺は2007年に京都府文化財保護課の指導のもと、住友林業グループ、千葉大学園芸学部と共同で「御室桜研究プロジェクト」を発足しました。
本プロジェクトのもと、住友林業は社内研究施設である筑波研究所で御室桜の生態解明と科学的知見に基づく管理技術の研究を実施。研究の末、2010年に御室桜の組織培養増殖に成功しました。
2012年に境内へ植栽したクローン桜は、2014年にはじめて開花し、以降美しい花を咲かせています。"とのことである。



 

2026/04/18

Nikon Z7Ⅱ



勅使門に関し、文化遺産オンラインには、
"白書院正面に東面して建ち、四脚門、前後唐破風造側面入母屋、檜皮葺である。
本願寺唐門を模した形式をもち、壁面や桟唐戸などを、花菱や鳳凰、唐草などを図案化した流麗な透彫りで埋め尽くす。
亀岡末吉の意匠感覚が発揮された見応えのある大型の門である。"と説明されている。
また、このような透彫りだと地震等に対する強度が稼げないので、左右一対の側方壁を設けたのかもしれない。





2026/04/17

Nikon Z7Ⅱ



勅使門は門の側方に沿うように左右一対の壁を持つ。
向かって右の壁の瓦屋根には12枚の花弁を持つ菊の飾り瓦がある。
こういうのは留蓋瓦(とめぶたがわら)と呼ばれ、屋根の隅(棟の端)など雨漏りしやすい箇所を覆い、隅蓋瓦やともえ蓋とも呼ばれているそうだ。
左側の壁の瓦屋根のは脱落したのか、ついていなかった。






2026/04/16

Nikon Z7Ⅱ



仁和寺の勅使門と満開の御室(おむろ)桜。
勅使門は1913年に再建されたもので亀岡末吉の設計によるもの。
御室桜は樹高2〜3mと低い遅咲きの桜である。
樹高が低いことに関し、仁和寺は、
"御室桜は遅咲きで、背丈の低い桜です。近年までは桜の下に硬い岩盤があるため、根を地中深くのばせないので背丈が低くなったと言われていましたが、現在の調査で岩盤ではなく粘土質の土壌であることが解りました。
ただ、粘土質であっても土中に酸素や栄養分が少なく、桜が根をのばせない要因の一つにはなっているようです。
あながち今までの通説が間違いと言う訳ではなさそうです。"と説明している。