2026/05/21

Nikon Z7Ⅱ



何度見ても素晴らしい大覚寺の勅使門である。
1848年から1854年にかけて再建されたものである。
勅使門というと天皇やその使いが牛車に乗って静々と入ってくるシーンを想像していたが、後ろ髪を引かれるように退出されることもあるそうな。

大覚寺によると、
"世は尊王攘夷が叫ばれる混迷の時代、有栖川宮慈性門主は幕府から勤皇討幕の疑いをかけられ、真言宗であるにもかかわらず、宗派の違う天台宗の徳川家菩提寺、江戸の輪王寺の住職を兼務するよう命が下りました。慈性門主は嵯峨御所大覚寺をこよなく愛され、この地を離れたくない想いを強く持たれておりました。しかしながら、命に背くこともできずいよいよ江戸に出発の時、勅使門より出られましたが何度も何度も振り返られ、大覚寺に未練を残されたということから「おなごりの門」と呼ばれるようになりました。天台座主として輪王寺で五年過ごされた間も大覚寺の伽藍復興の念願を訴えられ、輪王寺を弟の公現法親王に譲るなど着々と大覚寺への帰山に備えられました。幕府も熱意にほだされたか隠居のうえでの帰山を認めましたが、出発寸前の慶応3年(1867)11月24日、突如、江戸で残念ながらお亡くなりになられました。行年55歳。茶毒によるものだと噂されています。今でも輪王寺にある有栖川宮慈性入道親王のお墓は、京都大覚寺の方角を向いているということです。"

有栖川宮慈性(ありすがわみやじしょう 1813-1868)は、10歳で大覚寺の第44世門跡になったそうである。
振り返り振り返りした勅使門は現在の勅使門であろう。
なお、有栖川宮慈性は大覚寺の最後の門跡でもある。





2026/05/20

Nikon Z7Ⅱ



藤原公任の"滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れて尚聞こえけれ"の名古曽の滝の近くにある名古曽橋である。
家族4人でにぎやかに渡ったのであった。





2026/05/19

Nikon Z7Ⅱ



京都大覚寺の大沢池と満開の桜。
この大覚寺はもともと嵯峨天皇の離宮というか別荘であり、離宮嵯峨院と呼ばれていた。
嵯峨天皇(786年-842年)は46歳(833年)の時に太皇太后嘉智子と共にここに移り住み、別荘暮らしを始めた。
大沢池もその際に作られたようで、平安時代前期の名残をとどめる日本最古の人工の庭池とされている。
これは南東にゆるく傾斜する地形を利用して南から東にかけて長い堤防を作り、北西側からの流れをせき止めて池にしたものである。
お花見や紅葉を楽しみながら周囲をのんびり散歩するにはちょうどいいサイズである。

嵯峨天皇は57歳で亡くなるので田舎暮らしの期間は10年ぐらいである。
別荘取得適齢期はいつ頃なのかと時々考えたりする。





2026/05/18

Nikon Z7Ⅱ



S560を使用し、二泊三日で下田と松崎に遊びに行った。
ときどきランチやディナーで利用していたホテルに初めて泊まった。
部屋は6階にあり、そこのバルコニーから撮影した。




5/11 快晴。下田へ。了仙寺のアメリカジャスミンを見に行く。見事に満開である。
それから黒船ミュージアムで解説動画を見る。了仙寺が果たした役割などがよく分かった。
昼になったのでFermenCo.(フェルメンコ)に行ってピザを食べる。
シラスとモッツァレラチーズのピザが美味しかった。
さらに、玉泉寺に行き、ハリス記念館も見た。
夕食は大川屋で鰻を食べた。うまい。

5/12 天気良し。松崎の長八美術館に行く。
松崎出身で江戸時代に左官の名工として名をあげた入江長八の作品約50点が展示されている。素晴らしい。
それから重要文化財の岩科学校を見学した。ここでも長八の作品を見ることができた。
昼は道の駅で桜葉蕎麦を食べる。桜の葉を練り込んだ蕎麦で、こういうのは初めて食べた。
ホテルでディナー。やはりここのレストランは魚料理がうまい。夜の浜辺を歩いてみた。

5/13 快晴。ここのホテルのビュッフェ形式の朝食はなかなかいいと思った。
食後、テラスでゆっくりカフェラテを楽しむ。
チェックアウトしてバガテル公園へ。今年で閉園だそうである。バラ園は相変わらず素晴らしい。
木陰のベンチでゆっくり過ごす。これで見納めだと思うと少し寂しい。
ホテルに戻ってテラスでランチを頂き、帰宅した。



2026/05/16

Nikon Z7Ⅱ



"京都大原三千院、恋に疲れた女がひとり"は永六輔だったか。
三千院門跡を後にして味工房志野で筍ご飯と柴漬け、それから桜餅を買う。
桜が満開の高野川、その元井出橋の袂の小さな公園でそれらをパクつく。
今まで食べた桜餅の中でこれは最高だった。





2026/05/15

Nikon Z7Ⅱ



三千院は西に向かって開けた小さな扇状地地形の扇頂に位置している。
標高は280mから300mであり、一年を通じて比較的すごしやすい気候だと思う。
また、山林に囲まれているため、標高とあいまって春の花はやや遅れていっぺんに咲く傾向がある。
桜の他、木蓮や石楠花も咲いていた。







2026/05/14

Nikon Z7Ⅱ



有静園から観音堂の方へ登ってゆくと庭の表情は一変する。
枝垂桜や山桜などが満開になっており、その華やかさは極楽を思わせる。
樹形をむやみに整えていないので桜に勢いがあり豪快だ。



 



2026/05/10

Nikon Z7Ⅱ



苔の上に木漏れ日を作っているのは杉木立ちである。
この苔苑は有静園と呼ばれ中央に極楽往生院がある。
極楽往生院には国宝阿弥陀如来三尊が安置されており真近で拝観できる。
平安時代を代表する三尊像だそうだ。





2026/05/09

Nikon Z7Ⅱ



椿が浮かべてあった弁天池のそばにわらべ地蔵がある。
柔らかな苔に包まれ、なんとも言えない穏やかな表情が素敵だ。
石彫刻家の杉村孝氏の手によるものである。





2026/05/08

Nikon Z7Ⅱ



浮かべた椿の花に木漏れ日がさしている。
山桜の花びらも浮いている。





2026/05/07

Nikon Z7Ⅱ



三千院は庭が素晴らしい。
素晴らしいというより楽しい。
愛されている庭という感じがする。





2026/05/03

Nikon Z7Ⅱ



この雨の日の智積院は印象的だった。
家族は他の用事があって単独行動だったし、他の観光客もおらず、1時間以上、この庭園と大書院には自分だけだったからだ。
今までこういう経験をしたことがない。




生老病死の四苦は仏様に引き受けてもらい、欲を遠ざけ頭を丸めて敵意が無いことを示せば襲われることも無い。
そういう状態に置かれれば不安からも逃れられるだろう。
不安は野生の必然だから、それから逃れた状態になると果たして人間はどう変わるのか。
ベリャーエフの実験をDNAではなく環境でやってみたのが宗教ということかもしれない。
雨音以外は聴こえぬ静まり返った寺院でそんなことを考えた。



2026/05/02

Nikon Z7Ⅱ



講堂の廻縁。
毎日早朝、この廊下を修行僧の方々が磨き上げるそうだ。




智積院は真言宗智山派の三千もの寺をまとめる総本山である。
根来寺の時代、真言宗を学ぶための学問所であり、当時学僧は六千人もいたそうである。
この学僧達が巣立ち真言宗智山派として全国に広がっていったのだと思う。
京都に移ってからも多数の学僧が学び、朝粥を啜る音が七条大橋まで聞こえたそうである。
金堂のすぐ裏手には予想を超える規模の学侶墓地があり、志半ばで亡くなった学僧が葬られている。



2026/05/01

Nikon Z7Ⅱ



庭に面する大書院の広間には長谷川等伯のあまりできの良くないレプリカが展示されている。
左側手前が等伯の楓図、その奥が等伯の息子の久蔵の桜図、正面が松に立ち葵図である。
利休や秀吉に気に入られた等伯、当時の京都の画壇を支配していた狩野派との対立、そして、等伯は久蔵をあえて狩野派に修行に出したのだが期待の久蔵が若くして謎の死を遂げるのである。
楓図の向かって右側の枝が下を向いているのは久蔵の死を悼んでとの話がある。




智積院はもともと祥雲寺があったところに建てられた。
この祥雲寺というのは秀吉が夭折した鶴松のために建立した禅寺である。
一方、智積院は和歌山の根来寺の塔頭の一つであった。
根来塗の漆器を集めたことがあったので、根来寺には親近感がある。

根来寺を拠点とする根来衆が秀吉に反抗したため、秀吉により根来寺は焼き討ちにあい、同時に智積院も焼失する。
その後、豊臣が滅び家康の時代が来ると、秀吉に押さえつけられていた勢力が盛り返す。
そういう背景があり家康は智積院に祥雲寺を与えるわけである。

正面の松に立ち葵図は、大きく右側に傾いている松が鶴松、その下に咲いている葵が家康という訳である。
解釈は分かれているが、まあ、何と言うか。

なお、楓図、桜図、松に立ち葵図はすべて国宝であり、現物は智積院の宝物館で見ることができる。
いずれも大きく迫力があり日本画の頂点を極めた素晴らしい障壁画である。