雷神風神図をどうするかということに結論が出た。
雷神は持てるパワーをすべて叩きつけている、ように見える。
wikiの「悪」の解説にはこんなことが書いてある。
"日本語における「悪」という言葉は、もともと剽悍さや力強さを表す言葉としても使われ、否定的な意味しかないわけではない。
例えば、源義朝の長男・義平はその勇猛さから「悪源太」と、左大臣藤原頼長はその妥協を知らない性格から「悪左府」、江戸時代初期に権勢を振るった以心崇伝はその強引な政治手法により「大欲山気根院僭上寺悪国師」と評された。
鎌倉時代末期における悪党もその典型例であり、力の強い勢力という意味である。
本来「悪」は「突出した」という意味合をもつ。突出して平均から外れた人間は、広範囲かつ支配的な統治、あるいは徴兵した軍隊における連携的な行動の妨げになり、これゆえ古代中国における「悪」概念は、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価となった。
一方「善」概念は、「皇帝の命令・政治的規則に従うもの」に対する価値評価である。"
雷神は上記の意味の悪の象徴であろう。
仁王のような守護神ではなく、雷神は鬼の形相として描かれているのだから、まあ、この解釈で良いと思う。
一方、風神は雷神を面白がっている。
これは作者の宗達が悪を好意的にみていることを風神の表情を通して表現したということなのだろう。
そして、雷神の悪を理解するには風神のように悪と呼べる力を持つ者でなければならないということだ。
そうでなければ恐れおののき逃げ回るだけだ。
このように考えてゆくと、この一対の屏風の主役は雷神であろう。
無我夢中の雷神には風神など眼中にない。
風神どころか、ありとあらゆることが全く気にならない。
全身全霊で叩きつけるとはこういうことである。
そして、こうでないと困る。
という訳で雷神のみを描くことにした。