ところで、その後の五位はどうなったのであろうか?
帰京し、しばらくは芋粥の話でからかわれる日々が続くのであろう。
年に一度の芋粥を楽しめる正月の席では、おそらく落ち着いてそれを口にできる状況ではなくなるだろう
しかし、このような失敗は意外と悪くないのではないかと思うのである。
芥川は、五位が芋粥の夢を喪失したように評価しているが、夢を喪失したことにより新たな行動の機会を失った利点については考えていないようだ。
夢に向かって新たな行動を起こす場合、当然、現状を変更することになる。
山芋と甘葛(あまづら)が容易に手に入る田舎に暮らすことを五位が考えたとする。
当然、盗賊は出るだろうし、山芋ばかりを喰らうわけにもいかぬから村人ともうまくやっていかなければならぬ。
このように、都での五位の生活はみじめではあるが、かような生命の危険や生活の困難はない。
新しいことを始めるのはリスクが伴う。
たいていの場合、生存率の低下を招くのである。
であるからして、そのような分岐点に立つと、それを思いとどまらせる様な思考が無意識のうちに開始されるのである。
「金がかかるのではないか。」
「諦めればその金で旨いものがたらふく喰える。」
「怪我をするかもしれない。」
「家族が反対するだろう。」
「ご近所に笑われるかもしれない。」
「諦めれば余計な運動をすることもなく草臥れない。」
まあ、こんなどうでもよいようなことが次から次へと頭に浮かぶ。
新しいことを諦めるために思考を総動員し、現状に満足しようとするのである。
思うに、五位は「思いとどまらせる理由」を無意識下で探していたのではないだろうか。
そして、豪快な芋粥の調理現場の光景は、その「思いとどまらせる理由」そのものだった。
ああ、これは自分には絶対に無理だ、と心底納得できたのだ。
納得させられれば、危険に満ちた新たな行動に出ることはない。
五位は、ここに至って芋粥の呪縛から解放され、安心することができたのだ。
新たな行動の機会を失い、生存率の低下を防止することができたのである。
それに、己の不甲斐なさは恰好の酒の肴である。
じくじくと芋粥事件を思い出し、一斗の芋粥を前にした己の狼狽した姿や情けない表情を事細かく想像しては溜息をつき酒を呑む。
これが酒を旨くする、美酒にする。甘露である。
人間とはそういうものである。
アル中のほとんどは、この桃源郷に堕ち込んでいるのである。
どうだろう、こう考えてゆくと五位はそれほど不幸にはなっていないのではなかろうか。
現状維持ができた訳だし、己の不甲斐なさをまさぐる思い出で酒は旨くなる一方だ。
五位のその後の人生、言うこと無しではなかろうか。
それに、自由に生きる、というのも大変だ。
自由というのは出鱈目とはちがう。
時には調査研究し知識を蓄え、検討を重ね、己の方針を決定せねばならぬ。
五位のような人間にはやはり無理というものだろう。