2025/09/14

1975



以前書いたように1970年ごろから秋葉原をぶらついており、ごく自然に1971年からオーディオに興味を持ったわけだ。
しかし、オーディオ製品を眺めているだけであって、みょうちくりんな物を作るために財布の中身と相談しながら電気部品をあれこれ購入していたのが実情である。
みょうちくりんな物とは、スイッチを入れると光ったり動いたりといったものなのだが、やたらと複雑でまともに動作せず、あるいは試験してみると崩壊し、ずいぶん熱心に格闘していたな。

当時の秋葉原では家電店がどんどん増え、店の片隅にコンポーネントを置く部品屋も見かけるようになっていた。
始めは何とも思わなかったのだが、1975年ぐらいになるとさすがにこれは増えすぎだろうというか、秋葉原の電気部品屋の街という雰囲気がかなり失われていることに気づいたのである。
オーディオ製品というより電気部品の一種という捉え方をしていたスピーカーユニットの新型が1975年晩秋のオーディオフェアで発表されなかったのは、上記の秋葉原事情とあいまってイラナイ子宣言されちゃったみたい(いや、すでに自作派の時代は過ぎ去りイラナイ子になっていたのだと思う)で、だから、かなり不満だったのだ。
まあ、いつまでも続くというのは贅沢の極みというか、不可能というか、そういうことが飲み込めていなかったのだから仕方がない。

まあ、このころのイヤ~な雰囲気は、菅野沖彦氏のこの文章からも感じ取れる。
菅野氏も面白くないと思っていたにちがいない。
カラーテレビのくだりがおもしろい。

当時のオーディオ評論家は、おそらく全員、貧相な自作アンプと残念なスピーカーユニットの自作スピーカーで一人ひっそりと楽しんだ経験を持っている。
オーディオと呼ばれる以前のその世界は、ラジオとか無線機材から派生したものであって、秋葉原でも当然多数派ではなく、駅前の闇市の名残のような薄暗がりの露店、ラジオ会館の小さな店、そういうところに紛れるように存在していた。
実際、1970年代初頭には、まだそうした雰囲気が残っていたのである。

当時のオーディオ評論家に人気があったのは、そうした暗中模索時代に身につけた経験や工夫、新しいものに取り組む冒険心、それから貧乏ゆえの憧れや散々苦労してやっと入手したときの喜びが彼らの言葉の中に感じられたからなんだろう。
なんでもポチッとすれば手に入る現在では、まるで手が届かない世界である。



2025/09/12

1975



今年、2025年は昭和100年ということだそうだ。
そして、この昭和の戦争の記憶を後世に伝えなければならないとテレビが言っていた。
ま、そうは言っても戦後生まれだから戦争の記憶などあるはずもなく、伝えられそうな記憶としては50年前の記憶になろう。

50年前、そう、1975年は女の子達に妙にモテ始めた年でもありました、うはは。
おっとこれは失礼、オーディオフェアに初めて行ったのが1975年だった。
五反田のTOC東京卸売センター、その1階の広いブースというかフロアでデビューしたてのダイヤトーンのDS38BとDS50Cが景気よく鳴っていた。
外は夕方、寒い雨。

確認のため調べてみるとオーディオフェアではなく"全日本オーディオフェア"が正式名称で、"全日本"がくっついているところが当時の一億総中流意識の一体感のあらわれか。
また、翌1976年からは増えすぎた入場者数に対応するため晴海で開催されるようになったそうである。
そして、寒い雨というのは季節柄というのもあるのだが、気持ちが寒いっていうのもあったな。
これははっきりと覚えている。

なんのことはない、せっかく出向いたのに新型スピーカーユニットの発表が無かったのである。
いや、いくつかはあったのかもしれないが、各メーカーから発表された新型スピーカーシステムの華々しさに比肩するようなものは一切無かった。
そう、スピーカーユニットで商売する時代は過ぎ去っていたのである。
当時はそんなこと分からないから、音は良かったがちょい地味だったDS36BRから一新したDS38BとDS50Cのピカッとしたアルミフレームのスピーカーユニットをなぜ単品で販売してくれないのかと、少し恨めしい気持ちで雨の中をとぼとぼと帰った。